開沼博|社会学者
アーリーアダプターという言葉がある。何か新たな技術、商品やサービスを先んじて使おうとする人々のことだ。新しいもの好きと言っても良い。
私自身は、福島で起こる森羅万象のアーリーアダプターであるべきだと思って動いてきたつもりだった。実際、ある面では、誰かがいまさら走りはじめたところで追いつけないような専門性を身に着けてきたようにも、手前味噌ながら、思う。ただ一方で、なにがアーリーでなにがレイトなのか、よくわからなくなる混乱も感じる。
24時間営業のすき家が浪江にできた。これが地元では大変な話題になり、地元のメディアもすごいニュースとしてとりあげる。これを都会で言えば面白い話となる。別にそれは悪いことでも間違っていることでもない。「スタバが地方にできた」というニュースと同じ要素もある。
ただ、内情を知っていると、もっとこれは深い話だ。だいぶ前からの旧避難地域の問題は夜に飲食できる店が限られることだ。理由はいくつかある。
人手不足。これは全国どこでもある話かもしれない。旧避難地域であるがゆえの深い理由もあるが、それは若い研究者たちが研究してくれているのでそちらにまかせる。
作業員がだいぶ前にトラブルを起こしたり、あるいはそうではなくてもそれを懸念する声があって「部屋飲みしろ」という話になった。トラブルを起こしたら仕事を切られる。それが解けてきたと思ったらコロナになった。集団感染したらやはり。また「部屋飲み」文化が舞い戻り、いまも根深い。スーパーにいって酒・つまみ売り場の割合が高い。これは福島ならではかもしれない。
そいったいくつかの要因があって、「なんで夜行ける店がないんだよー」という声と、おそらく落とすべきカネもある街なのに、なんらかの受給のアンバランスと、それを埋めようとする新しい動きがとまらない。
そこにすき家がいる。都会に溢れているすき家が地方にレイトにくる、でも、よく見ると、そこにはすごいアーリーな要素がある。
「被災地で若者が新しい動きをつくっている」というのも、3.11直後からよく言われていた定型句だし、最近のそれはまた性質が変わっていて、14年たったレイトな場=ある面で落ち着いた・地味になった場にくるからこそ、アーリーな感じだったりして、それもまたどうなるか、良い意味での不確実性があってよい。
「オールドメディア」と生成AIとか新たな技術との対比とか、この1年、自分自身でもそれなりに深く考えて、仕事等でも関わってきたつもりだが、なにかその古いと新しい、早目と遅目とが倒錯してねじれて、何か新しいものも生まれたりして。そんな時期にも思える。
この感覚は1年前の福島芸術講にはなかったことだ、というのは、無理にひねり出した言い方でもないと思う。オーディエンスにとって何かそこに特殊と普遍、変化と不変とが見えるならば、それはまたアーリーなことなのだろう。
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