炎も太古の映画だ: Fukushima So So Chronicle

模型などの被写体をビデオカメラで撮影し、プロジェクター等でライブ投影するインスタレーションの連作『Realistic Virtuarilty』を、四半世紀近くも作り続けている。メディアが作り出す「イメージ」と「現実」の段差を可視化することが興味の一つで始めたが、おそらく最も知られている作品は2012年制作の『こんなことは無かった』で、原発事故直後の、誰も原子炉に近づけなかった、つまり見られない「実物」を想像(捏造ともいう)で視覚化した作品だった。
1ディケイドが経ち、現場では今も「熱」(エネルギー)の制御、格納容「器」の封じ込め、「湯」(冷却水)や廃棄物の「貯蔵」など、終わりの見えない試みが続いていると聞く。同時に地域の人々が住める場所を、物理的にはもちろん精神的にも確保する努力は続けられ、ある部分は再建途中、あるいは手付かずだったり…と、その状況が「復興」だ。
長いスパンで見れば、大地や海、人の営みは「以前」も「以後」もなく、地続きに続いてきた、そして続く。「器」を作り、「火」を焚き、「湯」を沸かし、食料の「貯蔵」をこの列島の「文明」の黎明とするのなら、この1万年以上、われわれは何も変わらない。
土の中に、旧商店街に、建設中の商業施設に、暮らしの手がかりを求めた同じ地に、かつてもまぎれもなく歩き、漁をし、食べ、夜は炎や月とそれらが映し出す自らの影を眺め、物思いに耽った人々がいたはずだ。スマホも電子マネーも持たないけれど、そこには輝かしい生があった。きっと今も、これからも。
それらを鳥瞰する年代記を想像し、素描をようやく始めたところだ。

伊藤隆介

作品撮影|間部百合

© Ryusuke Ito

© Fukushima Association for the Arts
All right reserved.